東京地方裁判所平成22年9月16日判決
事案の概要
鍼灸院で施療を受けていた患者が,乳がんに罹患し,死亡したことについて,患者の相続人が,鍼灸師には,患者が乳がんに罹患している可能性を認識しながら,直ちに施療を中止して,乳がんの専門医による診断,治療を促すべき注意義務を怠った過失があると主張して,鍼灸師に対し,慰謝料の支払を求めた事案。
考察
悪いのはガンに罹患しているのに気付きながら医者にいかなかった患者本人であり,それを鍼灸師の所為にするのはお門違い。
素人面して鍼灸師を槍玉にあげるのはいかがなものか。
裁判所の判断
裁判所は,(1)患者が鍼灸院を訪れた目的は,種々の身体的不調の改善にあり,左胸の痛みやしこりを鍼灸の施療で直接改善することまで意図したとは認められず,また,(2)胸痛が直ちに乳がんにり患しているという医学的知見もないことから,鍼灸師に(3)施療を中止すべき義務はなく,専門医の受診を妨害した事実も認められない等として,請求を棄却した。
1 鍼灸院における患者の施療経過等について
被告は,患者が鍼灸院を訪れた当初から左胸の痛みを訴え,その後も施療の期間中に左胸に痛みがあるとの話が何度も出ていたため,患者に対し,折に触れて,乳がんを心配されているのであればしかるべき医療機関を受診して検査をした方がいい旨の助言をしており,特に,左胸はしこりができているとの話を患者から聞いた平成18年2月16日以降においては,度々,患者に対して医療機関での受診を勧めていた。
2 施療中止義務違反について
(1) 本件施療の内容について
原告らは,本件施療契約は,患者の胸部症状(左胸の痛み,しこり)を鍼灸の施療により改善することを内容とするものであり,現に,被告は,患者の胸部症状につき鍼灸の施療を行っていたと主張する。
確かに,患者は,被告に対し,左胸に痛みやしこりがあるなどと繰り返し説明している。また,被告鍼灸院のカルテには,これらの胸部症状について度々記載がされている上,平成17年11月からは,乳房の図解も記載されるようになっている。
しかし,患者は,初回施療の際,身体の疲労感やこりを主訴として問診票に記載しており,その後の施療の際には,左胸の痛みのほか,身体の疲労感,こり,しびれ,胃の不調,仕事によるストレス等の種々の身体的な不調を繰り返し訴えている。これらに照らせば,患者は,種々の身体的な不調の改善を主たる目的として鍼灸院を訪れていたものであり,左胸の痛みやしこりを鍼灸の施療によって直接改善することまで意図していたものとまでは認めるに足りないというべきである。
かえって,鍼灸師は,患者の全身の疲労感の軽減等を目的として,その時点における患者の身体症状に応じた治療穴(経絡,つぼと同義)を選択するという方法で,鍼灸の施療により対応可能な範囲で患者に対する施療を行っていたにすぎず,上記のような胸部症状について直接施療したことはないと供述し,その陳述書にも同旨の記載がある。この供述等は,上記のような患者の訴えに沿うものであるし,医師の資格を有しない被告が鍼灸の範囲内で施療をしたという経緯は自然であり,その信用性を疑うべき事情は特に見当たらない。
(2) 施療の中止の要否について
ア 原告らは,鍼灸師には,①平成15年12月24日,②平成16年5月20日,③平成18年2月16日の各時点において,患者が乳がんにり患している可能性を認識しながら,患者に対する鍼灸の施療を中止し,専門医による診断,治療を促すべき注意義務を怠った過失があると主張する。
イ 平成15年12月24日の時点における施療中止義務
まず,原告らは,平成15年12月24日の施療時から患者が左胸の痛みを申し出ていたことから,被告には,患者が乳がんにり患している可能性を認識しながら,患者に対する鍼灸の施療を中止し,専門医による診断,治療を促すべき注意義務を怠った過失があると主張しており,確かに,上記認定事実によれば,平成15年12月24日の施療時において,患者が,被告に対し,生理の1週間前になると左胸奥が痛いと述べていたことが認められる。
しかし,胸痛から直ちに乳がんにり患していると疑うべきであるという医学的知見を認めることはできないから,患者が胸痛を訴えているというだけでは,医師の資格を有しない鍼灸師が相応の根拠をもって患者が乳がんにり患していると疑うことができたものということはできない。まして,鍼灸師は,胸痛を訴える患者に対し,医療機関を受診して検査を受けるよう折りに触れて助言していたのである。
これらに照らせば,鍼灸師は,平成15年12月24日の施療時において,Dに対する施療を中止すべき義務を負っていたということはできないし,この時点において被告が患者に対して行った施療や説明が不適切又は不十分であったということもできない。
ウ 平成16年5月20日の時点における施療中止義務
次に,原告らは,患者が平成15年12月24日から半年余り経過した平成16年5月20日においてもいまだ左胸の痛みを申し出ていたことから,鍼灸師には,患者が乳がんにり患している可能性を認識しながら,患者に対する鍼灸の施療を中止し,専門医による診断,治療を促すべき注意義務を怠った過失があると主張する。
しかし,胸痛から直ちに乳がんを疑うべきであるという医学的知見を認めることができないのは上記イのとおりである。また,患者は,平成15年12月24日から平成16年5月20日までの施療において,主に疲労感,こり,胃の不調などを申し出て施療を受けていたものであり,同年1月,2月及び4月などには胸痛を訴えてすらいないものと認められる。そして,このような経緯に照らせば,平成16年5月20日の時点においても,患者が胸痛を訴えていることから直ちに,被告が相応の根拠をもって患者が乳がんにり患していると疑うことができたものということはできない。そして,鍼灸師が,胸痛を訴える患者に対し,医療機関での検査を受けるよう折りに触れて勧めてきたことは上記イのとおりである。
また,そもそも全身の疲労感の改善等を目的とする鍼灸の施療は,医師が行う治療の妨げになるようなものではなく,医師の治療を受けながら上記のような施療を続けることもできると認められるから,仮に患者が乳がんにり患している可能性が認められたとしても,このことから直ちに,患者に対する鍼灸の施療を中止すべき義務が被告に生じるものということはできない。
これらに照らせば,鍼灸師は,平成16年5月20日の施療時においても,鍼灸師に対する施療を中止すべき義務を負っていたということはできないし,この時点において鍼灸師が患者に対して行った施療や説明が不適切又は不十分であったということもできない。
エ 平成18年2月16日の時点における施療中止義務
(ア) さらに,原告らは,平成18年2月16日の時点で患者の左胸に4cm大のしこりがあったことから,被告には,患者が乳がんにり患している可能性を認識しながら,患者に対する鍼灸の施療を中止し,専門医による診断,治療を促すべき注意義務を怠った過失があると主張するところ,確かに,上記認定事実によれば,平成18年2月16日の施療時において,患者が,鍼灸師に対し,左乳房に4cm大のしこりを発見したと述べたことが認められ,鍼灸師自身,患者が乳がんにり患している可能性を相当強く疑ったと自認している。
(イ) そこで,かかる場合において,はり師,きゅう師の免許を受けている被告が施療中止義務を負うかどうかを検討する。
あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師等に関する法律が鍼灸マッサージ業につき免許制度を採っているのは,それが医業類似行為としてされるものであり,場合によっては人の健康に害を及ぼすおそれがあることを考慮したためであると解される。
そうだとすると,上記免許を得て医業類似行為を行う者については,医師に必要とされる程度には至らないとしても,人の身体の構造や疾病に関してある程度の専門的な知識,技術の修得が求められる。
しかしながら,乳がんの診断,治療は,一般に,高度かつ専門的な医学的知見を要するものであり,主に乳腺外科等の専門医により行われるべきものであって,はり師,きゅう師の免許を受けたにすぎない者に乳がんの診断,治療についての専門的な知識,技術を求めるのは著しく困難である。
また,現代において,乳房にしこりがあるときには乳がんの専門医を受診すべきということがごく一般的な知識として普及していることに照らせば,鍼灸の施療を受けている被施療者の乳房にしこりがあると判明した場合,鍼灸の施療を中止し,乳がんの専門医を受診すべきかどうかを判断する知識,能力は,被施療者自身に備わっているのが通常であり,あえて施療者が被施療者に対してこの点についての助言を与えなければならないような状況ではないと考えられる。
そして,患者は,住宅販売会社の課長職を務めていた40代後半の女性であり,平成17年6月には,鍼灸師に対し,F病院で子宮がんの検査を受けたが問題はなかったと話していたことからしても,自らの乳房にしこりがあることに気付いた時点で,自分が乳がんにり患していると疑い,専門医を受診するべきかどうかを判断するに足りるだけの知識,能力を有していたものと認められる。
加えて,鍼灸師は,しこりの存在等を繰り返し訴える患者に対し,医療機関を受診し,検査を受けるよう重ねて勧めている。
さらに,患者が乳がんにり患している相当程度の可能性があると認められるとしても,このことから直ちに,患者に対する施療を中止する義務が被告に生じるものとはいえない。
(ウ) 上記(イ)で述べた事情に照らせば,鍼灸師は,平成18年2月16日の施療時においても,患者に対する施療を中止すべき義務を負っていたということはできないし,この時点において鍼灸師が患者に対して行った施療や説明が不適切又は不十分であったということもできない。
オ これに対して,原告は,鍼灸の施療は被施療者の全身状態に影響するものであるため,鍼灸師が何らかの施療を行えば,それが全身状態への影響を介して,患者の胸部症状ないし乳がんに影響を与える可能性があり得ることを根拠に,直ちに施療を中止すべきであると主張する。
しかし,全身の疲労感の改善等を目的とする鍼灸の施療が,医師が行う治療の妨げになるようなものではなく,医師の治療を受けながら上記のような施療を続けることもできることは上記ウで述べたとおりであり,鍼灸師が乳がんにり患している患者に対して行った鍼灸の施療が患者の乳がんの病態に悪影響を与える性質のものであるという事実を認めることはできない。
(3) 受診の妨害の存否について
原告らは,鍼灸師が患者に対して専門医の受診を勧めていた事実を否認し,かえって,「病院へ行けば切られちゃうよ。」などと述べて専門医の受診を妨害したと主張する。
しかし,現代において,乳がんの特徴,検査方法,治療方法等に関する一般的な情報は,だれでも比較的容易に入手することができるものである。
そうすると,胸部にしこりがあることに気付いた患者が,既にそのような情報を入手しているか,あるいは近い将来において入手するであろうこと,そのような患者に対して鍼灸師が上記のような脅迫的かつ断定的な言辞を述べれば,直ちに又は近い将来において責任追及を受けかねないことは,鍼灸師においても容易に推測し得るところである。
それにもかかわらず,鍼灸院を営み,多数の患者の施療に当たっている鍼灸師が,前記のとおり専門医への受診について十分な判断能力を有している患者に対し,上記のような脅迫的かつ断定的な言辞を用いて患者による専門医の受診を妨害するという理不尽な行動に出たなどとは到底考え難いというべきである。
そして,鍼灸師は,上記のような言辞を用いたことを強く否認している上,患者から胸痛やしこりの存在等について訴えがされる都度,心配しているのであれば,しかるべき医療機関を受診し,検査を受けるよう繰り返し勧めており,特に,しこりの存在について聞かされた後は受診を強く促していた旨,上記主張に相反する内容の供述をしていることに加え,鍼灸師が患者に対して胸の痛みやしこりについて医療機関を受診するよう勧めていた事実が認められることも前記のとおりである。
また,患者が実際に被告から専門医を受診することを妨害されていたのであれば,鍼灸師の妨害に反して専門医を受診した事実を鍼灸師に隠そうとするのが自然な行動であると考えられるが,患者は,平成18年7月31日,F病院を受診したことを鍼灸師に報告しており,その後も鍼灸師の施療や説明について患者が鍼灸師に抗議した形跡はない。
これらに照らせば,鍼灸師が患者に対して専門医への受診の妨害を行った事実を認めるに足りない。原告らの上記主張は採用できない。